何故いろいろと宗派があるのですか?

仏教各宗派(題目系・念仏系・禅系・真言系)の違いなどを、わかりやすく解説いたします。

今より約2500年前、インドにおいてお釈迦さまに始まった仏教は、中央アジア、中国、朝鮮を経て、6世紀初頭に日本に伝えられました。飛鳥時代に法相宗や律宗、平安時代に天台宗や真言宗、鎌倉時代に日蓮宗・浄土宗・浄土真宗・曹洞宗・臨済宗などに発展し現代に至っております。

さらに昭和、平成には古くからの仏教から派生した新興宗教と呼ばれる教団も生まれ、仏教は2500年の時を経て、まさに日本において開花したのだと言えるにかもしれません。

一部に正道から外れてしっまたようなものもありますが、多くはまじめに人々を救おうと日々活動しております。しかし、その内容はそれぞれに異なっております。
何故、お釈迦さまお1人から始まった仏教が、別々の教えを生んだのでしょうか。

それはそれぞれの教団が、何を人々の幸せと考えているのか。そしてその幸せへと導く手段はいかなる方法を取るのか。 この違いによって様々な教団が現在存在しているのです。

ですから、現代に生きる方々は、ご自分の志向や性格にあった宗派を選び幸せを実現していけばよいのです。

これから、念仏系・禅系そして、題目系の仏教各宗派の大まかな違いをお話しいたします。細かく考えていくと大部の本になってしまいますので、大まかにわかりやすくお話しいたします。

念仏系 (浄土宗・浄土真宗など)

「厭離穢土 欣求浄土」
「おんりえど ごんぐじょうど」 と読みます。
この穢(けが)れた世の中をいとい離れ、極楽浄土に往生することを心の底から望み求めます。という意味です。
この言葉からもお分かりになるように、この世での救済・幸せよりは死後の救済に力点をおいた宗派といえるでしょう。

「進者極楽 退者無間」
「しんしゃごくらく たいしゃむげん」と読みます。
これは戦国時代、浄土真宗の本願寺の一向一揆の旗印につかわれておりました。敵と闘う際に、前に進むものはたとえ戦死しても阿弥陀如来様が救って極楽浄土に往生させてくれる。しかし、敵を前にして逃げだした者は、無間地獄と呼ばれる最悪の地獄におちるという意味です。現代の感覚か考えると多少無理のある文言ですが、国中が相争っていた時代ですから、仕方ないでしょう。しかし、やはり、死後の救済に力点を置いていたいえましょう。

あまり詳しくない方が、「死後に救われても仕方ない。生きている間に救われなければ意味がない」と言います。その通りと言えなくもありませんが、全く現世での救済がないのか、と言いますと、そうとばかりはいえません。

五木寛之さん(作家、浄土系の教えに詳しい)の本を読めばわかりやすいと思います。
どうしようもない自分の愚かさや欲望や煩悩。このまま、自分は自分にうそをつきながら、一生を過ごし死んでいくのか。この苦しみをどうにかできないのか。と言うのが、五木さんのテーマのようです。

みなさんはどうでしょうか。ご自分の欲をすべてコントロールできるでしょうか? 
おそらく難しいと思います。
「ああ、なんて自分はダメな人間なんだ」
「自分は地獄にしかいけないどうしようもない人間なんだ。」
と五木さんも煩悶します。

その絶望の淵にこそ、阿弥陀如来の救済があるのです。そのどうしようもない凡夫(普通の人)をも救ってくれるのです。さらに悪い人間であればあるほど、なおさらすくい取っていただけるのです。

 

浄土宗の開祖、 法然上人の逸話 をお伝えいたします。まだ、法然上人が修行中であったときのこと。あるお寺に素晴らしい僧侶が居られると聞き、 法然上人は山をいくつも越え、そのお寺に向かわれました。すると何十人と言う武士が死んでいる場所に出くわします。小規模な合戦が行なわれた直後のようでした。お経をあげながら、その場を通り過ぎようとすると、いき絶え絶えで深い傷を受けた武士がいるのに気付きます。
はっとして、近づき声をかけます。

法然 「大丈夫ですか?」

武士 「お坊様、私はもうまもなく死にます。」

法然 「何を言っているのですか、がんばってください」

武士 「いや、いいのです。私は今まで、人を裏切ったり、乱暴をはたらいたり、多くの人間を殺してきました。自分でも悪いことをしているな、という意識はありました。そのうち悪い死に方をすることになるだろうな、とも思っていました。だから、今日このようにしてしぬのは、その報いと思っています。

しかし、お坊様聞いてください。何故、そんな悪いことをしてきたかと言えば、そのように人を裏切り、人を殺さねば、私が殺されていたのです。好きで人を殺したのではないのです。そうせざるをえなかったのです。 そんな私はこれから地獄にいくのでしょう。しかし、地獄はいやだ。

こんな私でも、救ってくださる仏さまはいらっしゃらないのでしょうか?」

法然 「いらっしゃいます。阿弥陀如来様です。お念仏をお唱えしましょう。阿弥陀様が極楽浄土へとすくい取ってくださいます。」

武士 涙を流ししばし無言。やおら息も絶え絶えに「ナムアミダ ナムアミダ」法然上人もともにお念仏をし、その中で武士は死んでいくのです。

このときの武士は、おそらく救われたのだと思います。阿弥陀如来にすべてお任せして、後顧の憂いなく極楽に往生できたのでしょう。

みなさん、いかがでしょうか。阿弥陀如来のお救いとは、とても心打たれるものがあります。このお話しは死期が間近に迫っている武士のお話しでしたが、病気で苦しむもの、金銭で苦しむものも、大いなる阿弥陀如来のご慈悲によって救われていくのです。「どうしようもない」と言う言葉があります。、その「どうしようもない」人間を、現世ではやさしく包み見守ってくれ、死後は極楽にお導きしていただけるのが、浄土系の各宗派の教えの根幹です。

私もかつては、その素晴らしさに魅了され、ずいぶんと傾倒いたしました。これはこ
れで素晴らしい内容をもった、大いなる大系であると思います。



浄土系仏教は、ご祈祷などは基本的に迷信としておりますので、生きている間の救済はひたすらお念仏をして、弥陀如来の救済を信じることが重要視されます。もうすでに阿弥陀様に救われているはずなのだから、どんなことがあっても大丈夫と信じきることこそが、阿弥陀信仰の究極的な救いと言うことになるでしょう。

ただ、日蓮宗の観点から申しますと、例えば、病気の方がいて何とか治して生き延びたい、と言う切実な願いがある場合などには、少し弱いところがあるかもしれません。日蓮宗の教えでは、病気にかかった場合、ともにお題目をお唱えし病気を退散させるということを行ないます。その実例は「感謝の言葉」をご覧下さい。本当に困っている方がいらっしゃる時に仏さまの大いなる力によって、その方を精神的だけではなく、肉体的にも、経済的にも救っていくことができるのが日蓮宗なのです。私は日蓮宗の大系は本当に素晴らしいと思っております。

しかし、浄土系の教えによって救われている方もいらっしゃるのも事実です。それは、それでよいのです。このページの冒頭でも、述べましたように人それぞれに感性は異なるのですから。

 

禅系 (曹洞宗・臨済宗など

「無」
禅とはなにか問われれば、「無」と言うことになります。曹洞宗にしても臨済宗にしても、自らを「無」にしていく修行が座禅なのです。
無になると言うのは単にそうなったと思い込むことではありません。無になり、実際に無に帰せられるのであって、思考によって極めようとするのではないのです。別の言い方をしますと、「宇宙との一体感を思い出す」といってもいいのかもしれません。別の言い方をしますと、「ああ、自分は仏なのだと気付くこと」が悟りの境地なのです。

「教外別伝 不立文字」
「きょうげべつでん ふりゅうもんじ」と読みます。お釈迦さまの教えの真髄は文字には表せない、以心伝心でもって、文字と言う方法ではない別の方法でなければ伝わりません。と言う意味です。例えば暑い寒いはそれを体験しなければわかりません。
奥深い「悟り」は文字ずらでは伝えらない、とするものです。そうだといえばそれまでですが、この方法によると、仏教を専門的に修する方しか悟れないし救われない、と言うことになるのかもしれません。

曹洞宗の座禅は「只管打座(しかんたざ)」といって、物事を考えず、ただひたすら座ることに徹しました。道元禅師はこれを仏法の正門とし、禅の修行の最高位に置きました。
曹洞宗の僧侶で有名なのは良寛さんでしょう。越後の国、現在の新潟県に住み、子どもとともにかくれんぼをしていたのですが、子どもたちが帰ってしまったのに、ずっと隠れていたという心温まる逸話は多くの方がご存知でしょう。

その良寛さんが七十歳の時に新潟地方で大地震があり多くの人が亡くなったとき、親戚にあてた一通の手紙が残っています。

「災難に遭う時節には、災難に遭うがよくそうろう。
         死ぬる時節には、死ぬがよくそうろう。
         これはこれ、災難をのがれる妙法にてそうろう。
                             かしこ 」

人は必ず死にます。だから、天災を恐れてびくびく生きるのではなく、死ぬときは死ぬのだから、くよくよすることなく、毎日を大切にして生きていきましょう。という意味です。
いかにも禅宗の僧侶らしい達観した見方です。まさしくその通りです。人は必ず死ぬときが来るのですから、それまでは余計なことは考えずに力強く生きていけばよいのです。禅宗の教えも素晴らしいものがあります。

臨済宗は、公案禅といい、いわゆる禅問答的な難解な課題を出題され、その答えをうると言う形での座禅をいたします。有名な公案が「隻手の音声」です。

「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)」
隻手とは片手のことです。両手では音を出すことができますが、片手では音を出すことはできません。しかし、その片手の音を聞く工夫をする、と言うのが眼目です。この公案を日々の修行の中で、気を抜かずに励めば、悟りをえられるのだそうです。

私は、日蓮宗の僧侶ですから、真の深い部分までは達しておりません。ただ、宇宙との一体感・自分の中の仏に気付くことなどが、その悟りへのヒントとなるようです。こういった感性を磨いていくことは非常に楽しいことであり、私も禅宗の素晴らしさの片鱗は体験したことがあります。いくつか禅問答を記してみましょう。

    「 無寒暑 (むかんしょ)」
      ある僧侶が、高僧に尋ねた。
      「ひどい寒さや暑さが到来した時には、どう避ければいいのですか」
      「寒さや暑さのない世界に行ってしまえばいいではないか」
      「どこにあるのですか、そんな世界は」
      「寒いときには、寒さでお前を殺し、暑いと感じたときには暑さ
       でお前を殺せばいい。それが、寒さや暑さのない世界だ。」


   「 香巌上樹 (きょうげんじょうじゅ)」
      香巌という僧侶が質問をだした。
      「人が高い樹に登ったとする。口で枝に噛み付いて、ぶら下がってい
       るだけで、手も足も木に触れてはいない。そのとき地面にいる人が
       『禅宗の開祖である達磨が、わが国に来たのはなぜか』と問うた。
       答えれば木から落ちて死んでしまう。答えなければ、禅僧として失
       格だ。さあ、このギリギリのときに、どうすればよいのか」

それぞれに奥行きのある禅問答です。いずれも論理的には解決できるものではありません。

さて、禅の世界を少し垣間見たわけですが、いかがでしたか。いわゆる達観の世界、悟りの世界であって、その世界に入ってしまえば、深い真理に到達できる楽しさがあります。また、そこが無執着から悟りへとつながる道なのです。

しかし、これを多くの一般の方ができるかと言えば、それは不可能です。禅の素晴らしさはわかるのですが、多くの人々をすくい取れるかといえば、それは無理だと言って差し支えないと、思います。機根(仏教受容能力)が高い方でないと難しいでしょう。

例えば、人間関係で苦しんでいる方が、解決をはかろうとお寺にみえたとします。そのときに本来この世は「無」ですから、あなたの悩み事は無いのです。と言ってしまって解決になるでしょうか。最終的には「無」の教えに帰着するのでしょうが、とりあえず、目の前の問題の解決をはかるべきではないかと思います。

 
実相寺には、病気に悩む方も参ります。その方に「死ぬがよくそうろう」とはまさか言えません。最終的には人は死ぬのです。ですから、良寛さんの言葉が間違いとは申しません。しかし、目の前に病気で苦しむ人がいれば、実相寺では様々な秘伝を駆使してその病気が平癒するようにいたします。当然、寿命が来てしまっている場合もありますので、すべての方が平癒するわけではありません。しかし、もう無理かと言われた方が直ってしまたことが多々あります。幸せに関しての日蓮宗の捉え方と禅宗の捉えかたの違いがあるのです。

しかし、禅系の教えの素晴らしさで、救われている方もたくさんおいでです。それは、それでよいのです。私の法華経の実質的なお師匠さんは、禅に深い造詣を持っていました。それぞれの志向や感性は異なりによって選び取ればいいのですから。

題目系 (日蓮宗・法華宗など)

浄土系、禅系の教えを大まかに見てまいりました。いかがでしたか。それぞれにしっかりとした大系が確立されており、それぞれに素晴らしいものがあるのです。

さて、続いて私が所属している日蓮宗に関してお話ししたいと思います。 次のページをご覧下さい。